自分も一応山ヤの端くれであるし、
その存在は知っていたが、
今まで一度も読んだことがなかった。
ちょうど僕が山小屋で働いていた頃は、
NHKのBSで百名山を紹介する番組を放送していた時期と一致する。
中高年層を中心に「百名山ブーム」が巻き起こっていた頃だ。
僕がいた小屋の前からは百名山のうち四座が見えた。
要するに連日恐ろしく忙しかった。
経営者は笑いが止まらなかったであろうが、
僕は毎日朝から晩まで大忙しでぐったりしていた。
さらに
夜はお客さんのお酒の付き合いをすることも多々あったが、
色々と「面倒な」方も多かった。
「私は百名山のうち何座制覇しましてな」
「私はあそこを何時間で登りまして、ははは」
と、まあ連日自慢合戦が繰り広げられていたといっていい。
僕は登ることに興味はなかったもんで、
「ぼちぼち消灯時間になりますんで」
と言い出すタイミングをいつも見計らっていた。
そんなもので当時は百名山なんて興味もなかったし、
こんなものを制定した深田久弥なる人物にも興味もなかったし、
こんな番組を放映するNHKを恨んでいた(笑)
それから早20年、
自分自身が「面倒だ」と思っていた中年になった。
何となく、その棚にあった「日本百名山」を手にして、
レジに持っていってしまったのも、
恐らく自分が中年の域に達した何よりの証であろう、とは思う。
僕は帰宅して、
最初のページから読んだ訳でなく、
かつて過ごした山域や、近隣の中心に読み進めていった。
すると「87・白山」の章にこんな一文があるのだ。
日本人はたいていふるさとの山を持っている。
山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。
そしてその山を眺めながら育ち、
成人してふるさとを離れても、
その山の姿は心に残っている。
どんなに世相が変ってもその山だけは昔のままで、
あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。
私のふるさとの山は白山であった。
僕はこの一文で、
ああ、この深田久弥氏は石川県の方だったンだ、
とぼんやり思った。
表紙の折返しの筆者紹介にも「石川県出身」とある。
さらに次のページをめくると、
冒頭にこうある。
私の故郷は石川県大聖寺だが、母が福井市の出だった関係から、中学(旧制)は隣の福井中学へ入った。
山への病みつきはその頃からである。大聖寺町と福井市を拠点とする附近の山へはよく登った。
その頃参謀本部の地図と呼んだ五万分の一に、歩いた跡を朱線で入れるのが大きな楽しみであった。
何だか急に深田久弥氏が身近な存在に思えてきた。
そして、彼が生まれ育った「大聖寺」なる街を訪ねてみたい、
そんな思いにかられるようになった。
福井市内は久々に青く澄んだ空が広がっていた。
天気予報を確認して、
久しぶりに傘を持たずに家をでた。
傘を持たない、そんな些細なことが、
長年北陸の地で暮らしているとどうしようもなく嬉しい。
福井駅から県境を越え約30分、
電車は大聖寺駅に着いた。
この駅で下車するのは初めて、
そう思っていたけれど、
待合室で「本棚」を見て、
かつて一度、この駅で降りたことがあった、
そんなことを思い出す。
やはり20年ほど前のことだろう、
おぼろげな記憶だけど、
今でこそほとんどなけれど
かつては金沢側から大聖寺行きなんて電車が
もうちょっとあったのではなかろうか。
だからこそ、この駅で降りたのだと思う。
僕は間違いなくその時は富山に住んでたし、
乗ってた電車の終点が大聖寺だったのか、
そのあたりは定かではないけれど、
当時も待合室に大きな本棚が設置されていて、
退屈することもなく、駅から出ることもなく、
次の電車を待ってたような気がする。
でも、どんなに記憶をたどっても、
思い出すのは「夜」だったってことと、
もう一人、誰か一緒にいたってことだ。
あの時の僕はいったい誰と、何処へ向かっていたのだろうか。
駅前の観光案内でマップをもらって、
何となく大聖寺なる街の位置関係を頭に叩き込み、
ポケットに突っ込んで徘徊を開始する。
駅前で何ともスパイシーな香りが漂っていたのは、
「インド・ネパール料理」なる店が駅前にあったからか。
朝飯を食べて間もないのに何となく腹が減ってくる。
ぶらぶら歩いていると
何となく垢抜けて見えるのは
屋根瓦が茶色とオレンジの入り混じったような色だからか。
深田久弥氏の生家を見てから、
「大聖寺城跡」なる小高い山へ登ってみる。
残念ながら白山は雲に覆われていた。
ちょっと残念に感じたのは、
この「大聖寺跡」が整備されているにもかかわらず
放置状態にあったことで、
ちゃんと整備すれば鯖江の西山公園のように、
市民の憩いの場になるんではなかろうか。
てなことか。
市街地をぐるりとまわり込むような形で、
「深田久弥・山の文化館」に到着。
入館料は300円だったけどJAF割引で250円。
学芸員さんが出てきて館内を案内してくれた。
「どちらからですか」
「福井からです」
「ほお、深田久弥は非常に福井に縁がありまして」
この建物はかつて絹織物工場の事務所であったとのこと。
廊下には百名山の写真や、
山に関する書籍がずらりと並ぶ。
何だか昔の学校を訪れたような気になってくる。
離れの石蔵が展示室になっていた。
「私はこの窓から見る景色が好きでして」
「写真撮ってもいいですか」と問えば、
「ええ、ご自由にどうぞ。どこでも」とのこと。
パネルを前にしながら深田久弥に関しての説明を受ける。
ヒマラヤ研究の第一人者であったことを知る。
先日亡くなられた登山家の田部井淳子さんも、
ヒマラヤに行く前に深田久弥を訪ねたそうだ。
「ビデオもありますんでどうぞごゆっくり」
そう言い残して学芸員の方は去っていった。
深田久弥直筆の原稿や、
愛用のバーナー、ダウンジャケットなどを眺め、
パネルを操作して映像を見た。
巨大なモニターに、
20年前に放送された「日本百名山」の映像が流れる。
僕が過ごした山々が、
そして見覚えのある方が映像に現れる。
そして、映像と共に流れるテーマ曲が何とも懐かしい。
この曲を聴いているだけで、
不思議と山に誘われそうな気がしてくる。
そういった点でも間違いなく名曲よな(笑)
しばらく頭の中から離れない。
全部見ると途方もなく時間がかかりそうだったので
途中で切り上げた。
石蔵を後にして図書室へ。
こちらには山岳関連の書籍がずらり。
図書室には20年前に自分が夢中になって読んだ本が
数多く並べられていた。
「懐かしい」その言葉しか出てこない。
この日は午後から所用があったもので適当に切り上げたが、
開館から閉館までずっと過ごしてもよさげな気がした。
何か昼飯でもと思いつつ、
駅に向かいがてら大聖寺の街を徘徊する。
良さげな中華料理屋さんがあったけど、
営業が16時からということで断念。
気づけば駅前に着いてしまった。
朝方見かけたインド料理屋さんに入ってみた。
福井の春江にあるお店と系列店のようだ。
驚いたのは店内の客の大半が、
地元の高校生だったことか。
案外この周辺には高校生が過ごせそうなお店がないのかもしれない。
ナンとカレーで腹を満たし、
福井行きの電車に乗った。
僕はカバンの中から「日本百名山」を取り出し、
「88・荒島岳」のページをめくる。
中学二、三年の時であったか、私は自分の町から歩いて、姉の嫁ぎ先のある福井県の奥の勝山町まで行った。
たしか春休みだったと思う。九頭竜川に沿って遡って行くと、菜の花の盛りだったことを覚えている。
荒島岳を初めて知ったのはその時だった。
大聖寺から勝山まで中学時代に歩くなんて、
深田久弥ってかなり「変わり者」の少年だったんだろうと思う。
そして、
自分も中学時代に赤穂から姫路まで歩いたことを思い出し、
同じ時代を生きていたら、
とてもいいお友達になれたような気もしてくる。
電車は九頭竜川を渡る。
何となく雲は多いなと思っていたが、
福井駅に着くと空は真っ黒になり、
紀伊國屋書店に立ち寄って外に出ると
叩きつけるような冷たい雨が降っていた。
言うまでもないが、
僕は傘を持っていない。