家の風呂の湯温調整がなかなかうまくいかない、
というのが最大の要因であるけれど、
富山に来てから銭湯に行く機会が増えた。
富山にはまだ銭湯文化が残っていて、
我が家から車で10分以内のところに
組合に所属する銭湯だけで5件もある。
家の風呂よりあたたまるのは事実だし、
銭湯帰りに買う缶ビールなんていうのは、
10倍増しくらいで旨く感じるし、
心なしかよく眠れるような気もする。
ただ、着々と減っているのも事実のようで、
日頃から町をうろうろしていると、
廃業した銭湯の建物というのはよくお見受けする。
昔ながらの銭湯の客といえばほぼ高齢者だ。
商売として成り立たなくなっているのも、
それはそれで仕方ないような気がする。
あるうちに一つでも多くの銭湯に入っていたい。
その銭湯の存在を知ったのは、
あいの風とやま鉄道のサイトを見ていた時のことだ。
このサイトには「ぷち旅ガイドブック」というページがあって、
駅周辺の手頃な散策コースを紹介しているのだけど、
なんとも渋い銭湯が掲載されていた。
「創業90年、鉄や硫黄を含む赤い湯が、肩こり、腰痛に効くと人気。歌好きの夫婦に会いに来て!」と書いてある。
うーむ、何だか気になるし行ってみたい。
てなわけで早速行ってみることにした。
あいの風とやま鉄道のホームに来たのはずいぶん久しぶり、
そんな気もする。
下りホームの工事は着々と進んでおり、
3月には供用開始となるとのこと。
しかしながらこの長さを見ると、
新幹線開業後も特急列車が乗り入れることが前提だったんだなあ、
と改めて思う(涙)
越中大門駅までの所要時間は13分で運賃は360円。
この駅を利用するのは初めてだ。
越中大門駅がある射水市は平成17年11月に新湊市と小杉町、大島町、大門町、下村が合併して誕生したのだが、
駅そのものはかつての大島町にある。
大島村史に詳しく掲載されている。
少し長めになるが設置の背景から引用させていただく。
これについて、古老は次のように語っている。「そのころ、国鉄を利用する人たちは、多く高岡へ出ていました。木橋だった雄神橋を渡って毎日通っていた、大島村や大門町などの通勤者たちで、「おはよう会」というグループを作っていました。この会から期せずして駅を設置してもらいたいとの希望が出て、この声が地域の輿論として高まってきました。とまらずに、通過して行くだけの汽車を眺めながら、“汽車は行く行く、煙は残る。残る煙はしゃくのたね” もっともこれはそのころ流行った文句ですが、よく言われたものです。
そして地元では、関係町村当局や議会のかたがたが結束して、猛運動を展開されましたが、浅井村(現大門町)の麻生正蔵さんも、活躍された一人です。また県選出の代議士、上埜安太郎さんも、ずいぶん努力されたものです。また、水戸田村(現大門町)出身の牛塚虎太郎さんは、のちに東京市長も勤められた方ですが、ちょうど、内閣統計局長をしておられました。この牛塚さんにも、ずいぶん中央関係の啓発に努力してもらったものです。」
このように、駅舎設置の輿論がほうはいと高まってきたので、明治45年1月、大門町長蓮田作兵衛ほか2町長8ヵ村長連署の、大門駅新設請願書を、衆議院に提出した。紹介議員は、県選出の上埜安太郎代議士であった。衆議院では、同年2月2日、請願委員会で採決、同月6日、本会議で採決された。このとき、上埜安太郎は次のような趣旨の説明を行っている。
「近く北陸線が全通するというのに、大門に駅がないのは、まことに遺憾である。大門は射水の中央に位置し、庄川に船運(伏木から東山見まで8里の間)の便があり、県道、中田、新湊線が、この町を貫通し、水陸ともに利便の地で、物資の集散地でもあり、枢要な地である。ことに、米穀の検査、輸出についての主要地でもある。距離にしても、高岡、小杉駅へいずれも遠すぎる。新湊町にも駅がないので、大門へならば一里ぐらいである。この際是非、大門駅を設置されたい。」
かくして、その必要性は十分認められたものの、諸般の事情から、大正12年になってようよう実現をみたものである。駅の位置は大島町北野地内で、高岡駅と小杉駅のほぼ中間(鉄路ではかって)にあたる。
駅名については、当初三島野駅などという案もあったが、結局越中大門駅に落ち着いた。しかし、本来ならば大島駅と称してよいものである。ある人いわく、「大は大島の大で、門は大門の門で、この2つを合わせて大門駅といったものである。したがって、だいもんと呼ばず、おほもんと呼ぶべきであろう。」と。
今の時代なら大門大島とかいったけったいな名前になっていたのかもしれない、
なんてことも思う。
まずは昼飯である。
以前に車で小杉から大門の町中を抜けて高岡に抜けた際、
立ち寄ったドラッグストアの向かいに、
ずいぶん流行っているそば屋があるなあ、と思ったことがあった。
せっかくなのでお邪魔してみることにする。
駅から歩くこと10分弱といったところか、
改めて建物を眺めてみると思いのほか立派な建物で、
「大門 みなみ」と大きな看板が掲げてある。
カウンター席に座ると、目の前に「カツ丼」の文字が見えた。
メニューを開く間もなく、お冷を持ってきてくれたお姉さんにカツ丼を注文。
そばかうどんが付くとのことで温かいそばを注文。
ほどなくカツ丼が配された。
カツ丼がメインのつもりであったが、
思いの外美味かったのが「そば」だった。
黒くて太くて、どことなくもちっとした感じもあって、
これまで食したことのない感じの「そば」。
そば屋なんだからそばが美味いのは当然か、
なんてことも思ったが、今度は冷たいそばも食べてみたいと思う。
カツ丼は卵少なめ出し濃いめ。
そば屋のカツ丼なんて美味いに決まっているのだ(笑)
いやはや、満足。ごちそうさまでした。
大門赤湯鉱泉の営業時間は14時半からとのことで、
しばらくぶらぶら徘徊。
庄川沿いにある大門神社を訪ねると、
「自分の心を写す鏡」なるものがあった。
鏡を覗いてみると、
冴えない坊主頭の中年男が、
間抜けな顔をして鏡を覗き込んでいる様子が見えた。
大門の町中へ。
そこには予想外に風情を感じる町並みが広がっていた。
後で大門町史を開いてみたら、
このあたり、かつての「遊郭」であったそうな。
以下大門町史より。
昔は街道すじの宿場ごとにたいてい遊女がいたもので、免許地では芸妓・女郎とも呼び、場所を遊郭または単に廓ともいった。北陸本街道に面したこの町に遊郭ができたのはいつのころか明らかでない。水陸交通の中継地として栄え、ことに伏木港へ積み出す射水・砺波産米の集積地であり、さらに明治18年(1885)1月高岡米商会所が創立され一層商取引が盛んとなったころ、大門に遊郭ができたとも言われている。
明治30年ごろには4軒の料亭があったが、だんだんその数を増し、第一次大戦ごろの景気と呉羽紡績(現東洋紡)建設工事で多くの工事関係者が入りこんで、商店街が活気にあふれた昭和8年前後には横町(いまの錦町)と倉町周辺には20軒もの置屋と料亭があり、芸妓は200人近くもいた。そのころが大門町遊郭の最盛期であった。
いろいろ知らないことがあるなあ、と思っていたついでに、
大門は読売新聞の経営者であった正力松太郎さんの出生地であることも知った。
富山の方であることは存じていたが、大門出身とは初耳である。
正力松太郎さんの名字を冠した図書館で時間つぶしがてらいろいろ調べ、
大門赤湯鉱泉が開くのを待った。
大門赤湯鉱泉は駅近くの通りに看板を掲げていた。
奥の方に、あいの風とやま鉄道のサイトに出ていた
古めかしい建物が見える。
これは渋いぞ、と期待が高まる。
しかし、扉はしまっており、中に張り紙が見えた。
張り紙の一部は丸まっており、全文読むことは不可能であったが、
「廃業した」ことだけは分かった。
「・・・」
あとで調べてみると、2016年に入浴したというブログを見つけたが、
目新しい情報はなく、いつ廃業になったのかも定かではない。
北日本新聞のwebunで記事検索をかけてみたけど、
大門赤湯鉱泉に関する記事は見つからなかった。
人知れず、ひっそりと廃業したのだろうか。
富山に戻って、かつて駅近くにあった銭湯、観音湯の跡地を訪ねてみた。
観音湯に初めて来たのは高校2年生の夏で、
剣岳の帰路だったと思う。
その後、大人になって富山駅前で飲む機会が増えたけど、
時間があれば観音湯でひとっぷろ浴びてから居酒屋というのが、
僕の定番コースだった。
その観音湯も、僕が福井に行っている間に廃業し、
今は駐車場になっていた。
しばらく駐車場をぼんやり眺め、よれよれと帰宅。
風呂に入りに大門まで行ったはずなのに、
結局入らずに帰って来ちゃったことに気づき、
帰宅した相方と銭湯へ行った。