北陸徘徊人(元)

富山、福井、石川を中心にゆるーい旅を満喫中

北陸新幹線狂騒曲 その1 昭和編

「新幹線が春を連れてやってくる。」

そんなキャッチフレーズのもと、

2015(平成27)年3月14日、北陸新幹線が金沢まで開業した。

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それからはや8ヶ月。

今なお金沢市内は観光客であふれているらしい。

週末、近江町で海鮮丼を食べようとしたら2時間待ちであるそうな。

福井県内の観光客も軒並み増えているとのこと。

 

ちなみに月刊トレンディが選んだ2015年のヒット商品1位は

北陸新幹線、だったそうな。

北陸在住者としてはおめでたい話である。

福井県内でも平成34年度の敦賀開業へ向けて、

各地で工事が始まりつつある。

 

新幹線は北陸に春を連れて来てくれたようではあるが、

残念ながら冬を遠ざけてはくれない。

 

街を歩けば各所で「融雪装置」の点検が始まっている。

 

晴れていようが何であろうが、

道路はびしょびしょになる。

乗用車やトラックが水しぶきを上げながら走っていく。

歩道なんかを歩いているとずぶ濡れになったりもする。

 

この光景を見るたびに「あー冬がやってくる」としみじみ思う。

 

晴れている日が極端に少なくなり、

灰色の分厚い雲が空を覆うことが多くなる。

気づけばポツポツ雨も降ってきたりするし、

出掛ける気力もわかなくなる。

 

この週末も福井の天気予報は雨であった。

 

相方は友達と出かけてしまい、

こんな日はついつい朝から家で酒でも飲みたくなるが、

もはや廃人寸前になりつつあるという自覚はあるもので、

僕は県立図書館に出掛けることにした。

 

図書館さえにいれば「酒を飲みたい」などという欲求もわかない。

余計な光熱費もかからない。

いいことずくめである。

 

そんな図書館で新聞をまとめ読みしつつ、

はて、と思ったことがある。

 

すっかり新幹線に関する記事が減ったことだ。

 

 アルコールに侵された僕の記憶が確かなら、

今年の8月頃までは「福井までの延伸前倒し」を、

なんてことがさかんに報道されていた。

福井駅の1面2線では対応できないとか、

留置線を何処ぞに作って、とか、

それなりにネットでも話題になっていた。

 

ところが最近はさっぱりそんな話を耳にすることがない。

記事も見当たらない。

 

敦賀以西のルート策定に関する記事はある。

ところが前倒しの話はすっかりなくなってしまったのだろうか?

 

夢を見させては消え去り、

再び現れて夢を見させる北陸新幹線

それは富山県民であった頃から感じてた。

 

建設が始まったにも関わらず

福井の盛り上がりがかけているように感じるのは、

過去に散々裏切られてきているからではなかろうか。

 

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昭和48年に整備計画が決定しているにも関わらず、

40年以上たった今もルートすら決まっていない。

 

僕は当時の社会情勢がどんなものかも合わせて、

新聞の縮刷版をめくって見ることにした。

すると新幹線に翻弄された方々の一端がみえてきたような気がした。

 

1964(昭和39)年10月1日

東海道新幹線開業

 

1964(昭和39年)10月10日

東京オリンピック開幕

 

1964(昭和39)年11月9日

第一次佐藤栄作内閣発足

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http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/61.html

 

1964(昭和39)年12月15日

481系電車特急「雷鳥」「しらさぎ」運転開始

⇒共に1往復の運転で下り雷鳥の大阪〜富山の所要時間は4時間45分

 

1965(昭和40)年7月1日

名神高速道路が全線開通

 

1965(昭和40)年9月26日

南海ホークスが2年連続10度目のリーグ優勝

石川県金沢市で「一日内閣」開催

佐藤内閣初の一日内閣(国政に関する公聴会)は26日午前9時すぎから金沢市の石川県立体育館で開かれた。

北陸四県から選ばれた発言者14人が佐藤首相をはじめ、中村文相、鈴木厚相、坂田農相、瀬戸山建設相、永川自治相、藤山企画庁長官、安井総務長官に次々質問した。

福井新聞・昭和40年9月27日付記事より抜粋

⇒当時の首相は佐藤栄作氏、

文部大臣は後の衆議院議長となる中村梅吉氏、

厚生大臣は後の首相となる鈴木善幸氏、

農林大臣は石川県選出の坂田英一氏である。

 

この頃は総理大臣をはじめ、各大臣が地方に出向いて一般の声を聞く「一日内閣」と呼ばれる公聴会が定期的に行われていたようで、

昭和39年に発足した佐藤内閣下では初、北陸での開催も初であった。

 

この場で14人の発言者が閣僚に意見を述べているが、

記事から推測するに最後に壇上に立ったのが

富山県の会社役員、岩川毅氏であったと思われる。

 

北陸地方の産業開発のため、電力の再々編成が必要だ。新産業都市の指定は何ら役にたっていない。政府の産業資金面でも北陸は東北に比べ非常に冷遇されている。東京、北陸、関西を結ぶ新幹線を建設せよ」

新産業都市(しんさんぎょうとし、略称:新産都)は、1962年に制定された新産業都市建設促進法(昭和37年法律第117号、新産法)に基づいて、「産業の立地条件及び都市施設を整備することにより、その地方の開発発展の中核となるべき」(第1条)として指定された地域である。

新産業都市 - Wikipedia

この記事だけでは突拍子もなく「新幹線」という言葉が出てきているような気がしたので、もう少し詳しく見てみたい。

北陸新幹線の実現を夢見た男 岩川毅

●北回り新幹線の実現を目指す!

「太平洋側と比べて日本海側は交通網に遅れをとっている。東京から北陸を通って、大阪につながる北回りの新幹線を建設していただきたい!」

昭和40年(1965)、金沢市で開かれた一日内閣の席で、突然岩川は当時の首相佐藤栄作に熱い口調で訴えました。彼の迫力に佐藤も驚き、熱心に耳を傾けたといいます。彼は緻密に調べ上げたデーターをもとに「裏日本(現在はこういった言い方は差別表現となり使用されることがなくなりました。現在は日本海側 という表現をします)」と呼ばれ、開発が遅れていた北陸に、東海道新幹線のバイパス路線として、「北回り新幹線」を建設するべきだと熱く語りました。

 ▷e-tonamino.com│よみもの│となみ野ストーリー

富山の一民間人が、直接当時の首相に新幹線の建設を訴えた。

当時の会場には1800人もの聴衆がいたそうであるが、

残念ながらその反応を描いた記事は見当たらない。

 

驚くのはこの発言が東海道新幹線が開通した翌年のことであるということだ。

北陸本線は前年にようやく富山までの電化が完了し、

電車特急「雷鳥」と「しらさぎ」の運転が始まったばかり。

田中角栄氏の日本列島改造論が発表される、はるか以前のこと。

 

僕がその場にいたら絶対に息を飲んで聞き入ったと思う。

誰も本気にしていなかったとしても。

 

1966(昭和41)年6月29日

ビートルズが来日

 

1966(昭和41)年6月30日

福井空港開港(7月1日より羽田〜福井線開設)

 

1966(昭和41)年12月27日

黒い霧解散

 

1967(昭和42)年5月

当時の鉄道建設公団副総裁である篠原武司氏が「全国高速鉄道網建設構想」を発表

 

1967(昭和42)年12月8日

北回り新幹線建設同盟が発足

北回り新幹線 建設同盟が発足

北回り新幹線建設促進同盟会設立総会は8日午後、東京・永田町のヒルトンホテルで開かれ議長に羽田長野県議会長を選んだのち

①東京、大阪を北回りに結ぶ「北回り新幹線」の建設を早急に樹立する

②同新幹線の早期着工を期するため、調査費を予算化することを決議

 (中略)

北回り新幹線は日本海沿岸都市および内陸の都市を首都圏、近畿圏に直結させ地域格差の是正を図ろうというもの。

総会では中西石川県知事が

東海道新幹線は建設され三年余を経過したが、その効果はいうまでもない。北回り新幹線構想は現行新幹線と延長距離にしてわずか50キロ程度の差であり、第二新幹線として充分機能を果たすと思う(以下略)」と述べた。

福井新聞 昭和42年12月10日付記事より抜粋

 

1968(昭和43)年7月10日

京福電鉄・丸岡線廃止

 

1968(昭和43)年8月13日

飛騨川バス転落事故

 

1968(昭和43)年10月1日

国鉄「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正

⇒特急「雷鳥」が3往復に。最高速度120キロでの運転開始。

 

1968(昭和43)年12月10日

3億円事件

 

1969(昭和44)年5月26日

東名高速道路が全区間開通

 

1969(昭和44)年10月1日

北陸本線全線複線・電化完成

⇒大阪〜新潟間に特急「北越」運転開始

 

1970(昭和45)年3月14日

日本万国博覧会が開幕

 

1970(昭和45)年11月25日

作家の三島由紀夫が自決

 

1971(昭和46)年7月30日

全日空雫石衝突事故

 

1972(昭和47)年2月3日

札幌オリンピック開幕

 

1972(昭和47)年2月19日

あさま山荘事件発生(28日に警官隊が突入)

 

1972(昭和47)年3月1日

国鉄・三国線廃止

 

1972(昭和47)年6月11日

田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表

日本列島改造論 (1972年)

 

1972(昭和47)年3月15日

山陽新幹線岡山開業

 

1972(昭和47)年5月15日

沖縄返還

 

1972(昭和47)年6月17日

佐藤栄作首相が退陣表明

 

1972(昭和47)年6月29日
東京ー大阪間を高崎・長野・富山・金沢経由で結ぶ「北陸新幹線」としての基本計画が決定

 

1972(昭和47)年7月7日

第一次田中角栄内閣発足

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http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/64.html

 

1972(昭和47)年10月18日

北陸自動車道・金沢西IC〜小松IC開通(初開通)

 

1972(昭和47)年11月6日

北陸トンネル列車火災事故

 

1972(昭和47)年12月15日

国鉄越美北線・勝原駅〜九頭竜湖駅開業

 

1973(昭和48)年10月16日

北陸自動車道・小杉IC〜砺波IC開通

 

1973(昭和48)年10月17日

北陸自動車道・小松IC〜丸岡IC開通

 

1973(昭和48)年7月20日

ドバイ日航機ハイジャック事件

 

1973(昭和48)年9月29日

福井鉄道・ 鯖浦線廃止

 

1973(昭和48)年10月6日

第四次中東戦争勃発:後にオイルショック

 

1973(昭和48)年11月1日

小松空港ジェット化:東京〜小松線にB737就航

 

1973(昭和48)年11月13日

北陸を含む整備五新幹線の整備計画が決定

五新幹線 三月末にも着工 運輸相 実施計画の作成指示

新谷運輸相は13日、国鉄日本鉄道建設公団に対し、東北(盛岡ー青森)北海道(青森ー札幌)北陸(東京ー大阪)九州(福岡ー鹿児島)同(福岡ー長崎)の五幹線計画について「工事実施計画」を作るよう指示した。

五新幹線については、国鉄と鉄建公団が大ざっぱな調査をおこなってきたが、「工事実施計画」では、路線の縮尺二十万分の一の平面図や駅の位置などが決まる。五新幹線は五十四年度に開業することを目指しており、早ければ来年三月までに「計画」ができあがり、直ちに着工の運びとなりそうだ。

しかし、北陸新幹線などは山岳地帯を通過するので、綿密な地質調査を行わなければ路線の確定はできないため、運輸省は「計画」のできたところから着工を認可していく方針である。

なお、国鉄が東北と九州新幹線を、鉄建公団が北海道と北陸新幹線を、それぞれ建設する。

朝日新聞 昭和48年11月14日付

⇒ようやく建設に向けて動き出した、といえる。ところがこの日の朝日新聞にはこんな記事もある。

黒字たった4線に 新幹線・山手・高崎・東北
1日走れば赤字9億 国鉄47年度

国鉄は13日、四十七年度の線区別収入を発表した。

営業延長キロ(船舶航路を含む)2,1820.8キロ、254線区のうち、黒字となったのはたったの四線、1,593キロにすぎず、鉄道・航路の赤字は3,305億円、自動車を加えると3,415億円に達した。一日に換算すると毎日9億4000万円の赤字を出しながら走った計算になる。

四十六年度に七線あった黒字線は、ついに四線に減り、鉄道全体の収支係数(百円の収入を得るのにかかる経費)も四十五年度113円、四十六年度120円が127円と、7円きざみで悪化してきている。

最も収支係数の悪い美幸線(北海道)は収入260万4000円に対し、経費は7403万3000円で、収支係数は3,270円。また昨年十一だった収支係数1,000円以上の路線が十九線区にふえ赤字のひどさを物語っている。

そう、当時の国鉄は大赤字だった。

美幸線なんていう「赤字の象徴」のような見方をされた路線も出てくる。

このあとはオイルショックにより建設計画は凍結される。

ま、僕が生まれた頃の話です(笑)

 

1974(昭和49)年3月12日

日本兵小野田寛郎さんが帰国

 

1974(昭和49)年7月20日

国鉄湖西線開業

 

1974(昭和49)年10月14日

巨人軍・長嶋茂雄選手が引退

長嶋茂雄 最後の日。 1974.10.14

 

1974(昭和49)年10月29日

北陸自動車道・砺波IC〜金沢東IC開通

 

1974(昭和49)年12月9日

三木武夫内閣発足

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http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/66.html

 

1975(昭和50)年3月10日

山陽新幹線博多開業

 

1975(昭和50)年9月9日

北陸自動車道・丸岡IC〜福井IC開通

 

1975(昭和50)年10月4日

北陸自動車道・富山IC〜小杉IC開通

 

1976(昭和51)年7月27日

ロッキード事件田中角栄前首相逮捕

 

1976(昭和51)年11月2日

北陸自動車道・ 福井IC 〜武生IC開通

 

1976(昭和51)年12月24日

福田赳夫内閣発足

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http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/67.html

 

1977(昭和52)年11月15日

新潟で横田めぐみさんが北朝鮮工作員に拉致される

 

1977(昭和52)12月8日

北陸自動車道・武生IC〜敦賀IC開通

 

1978(昭和53)年5月20日

新東京国際空港開港

 

1978(昭和53)年9月21日

北陸自動車道・新潟黒埼IC〜長岡IC開通

 

1978(昭和53)年10月3日

整備新幹線5線の具体的実施計画決定

「北陸」など同時スタート

政府は3日の閣議前、国会内で自民党の大平幹事長ら党三役を含めた新幹線整備関係閣僚会議を開き、北海道、東北(盛岡以北)北陸、九州、長崎の新幹線整備五線の着工を同時スタートさせる具体的実施計画を正式決定した。

これによって昭和48年の石油ショックによる総需要規制で整備計画が決まりながら足踏み状態を余儀なくされてきた整備五線の着工は、約5年ぶりに決着。

あとは本格着工へ向けての環境影響評価の実施、工事実施計画の策定を急ぐばかりとなった。

 

どうなるルート・停車駅 市町村に不協和音も

北陸新幹線を含む整備計画五線について、政府が石油ショックから五年ぶりに出したゴーサイン。

県内市町村や経済界では「景気浮揚、日本海側の開発に大きく役立つ」「黄金のトビラが開いた思い」と永年の念願が実現に向けて動き出したことを一応歓迎している。

今後地元としての最大関心事はルートと停車駅の公表だが、県北陸新幹線建設促進同盟会(会長・中川知事)が進めてきた四駅以上の設置は厳しい状況で、停車駅実現を目指している自治体首長の間に早くも不協和音が目立ち始めている。

新幹線は駅間距離30キロを目処としており、福井駅の位置決定が影響する芦原温泉駅について斎藤芦原町長は「三国線廃止の時に、国鉄芦原温泉駅嶺北観光の中核拠点として整備することを約束した。坂井郡下に駅のない新幹線は絵に書いたモチで誘致に全力投球する」と話す。

南越駅を運動している笠原武生市長は「四駅以上の実現は南越駅設置が条件。地域開発の目玉として強く陳情をくりかえす」

一方、若狭ルートが決定していることで若狭駅実現は確立が高いとみている小浜市敦賀市には余裕がみられ、浦谷小浜市長は「受け入れ組織を築きあげたい」と住民との話し合いに積極的に協力する考え。

現役併設か新たな場所かが問題となっている福井駅について大武幸男福井市長は「現駅併設でいく。しかるべき地元負担もする覚悟だ。国鉄福井駅周辺の再開発といった形で協力する」という。(略)

これに対し市橋県経団連会長は「新幹線駅は福井市だけのものでなく市周辺の人々の駅でもある。駐車場を広くとる必要もあり種々の条件を考えると現駅併設は困難と思う」と述べ、ルートや駅をはじめ今後問題となる地元負担についても県の立場で調整しなければならないといっている。

 福井新聞 昭和53年10月4日付記事より抜粋

嶺北は揉めていて嶺南は余裕であることが伺える。

驚いたのは福井駅を別に作る構想もあったということか。

ただ、この会長さんの話がスッと入ってくるのは

立場の違いもあれ他の首長が「我れこそは」と言っているのに対し

周囲の利便性を第一に考えていることだ。

高岡なんかも同様の考え方だったのだろうか。

 

1978(昭和53)年10月12日

北陸自動車道・金沢東IC〜金沢西IC開通

 

1979(昭和54)年1月26日

三菱銀行人質事件

 

1980(昭和55)年4月7日

北陸自動車道敦賀IC〜米原JCT開通

 

1980(昭和55)年7月17日

鈴木善幸内閣発足

⇒ようやく僕の記憶にある首相が出てきた(笑)

 

1980(昭和55)年8月16日

静岡駅前地下街爆発事故

 

1980(昭和55)年8月19日

新宿駅西口バス放火事件

⇒僕の記憶にある最初の「事件」シンジュクという言葉を聞くだけで怖くて震えてた

 

1980(昭和55)年9月14日

北陸鉄道・能美線廃止

 

1980(昭和55)年9月27日

北陸自動車道・長岡JCT 〜西山IC開通

 

1980(昭和55)年12月19日

北陸自動車道・滑川IC〜富山IC開通

 

1980(昭和55)年12月27日

国鉄再建法が交付、施行

⇒この法律の施行により地方で建設が進んでいた新規路線の工事が凍結された

 

1981(昭和56)年4月1日

福井鉄道・南越線廃止

 

1982(昭和57)年2月8日

ホテルニュージャパン火災

 

1982(昭和57)年3月30日

北陸新幹線ルート公表

新幹線整備五線のトップをきって東北(盛岡以北)と北陸新幹線のルートと停車駅の位置が30日決まった。

国鉄日本鉄道建設公団によると、東北新幹線は延長178キロ、八戸まで在来線と並行、八甲田山系を通り抜けて新設する新青森に乗り入れるルートで駅は6駅。

一方、北陸新幹線ルートは当面、武生以東に絞り、軽井沢、長野、上越、富山などを経て福井入りし武生に至る延長440キロ。

ほぼ在来線に沿って駅は17駅。

国鉄、鉄建公団は五月下旬をメドに環境影響評価事案をまとめて地元に提示する予定だが、建設着工となる工事実施計画は地元負担など財源措置の見通しがついた段階で運輸相に認可申請する方針。

しかし、東北(盛岡以北)北陸両新幹線の着工は財源措置という大きな難題があり、着工まで相当な時間がかかりそうだ。

着工阻む財源の壁 厳しい地元負担 「若狭ルート」に不安
「武生止まり」不満 大阪からの同時着工望む

鉄建公団が武生までの北陸新幹線のルートを公表したことについて、県内経済界では一応歓迎しているものの、武生止まりになったことに「手放しでは喜べない」という意見も強い。

経団連会長の市橋福井銀行頭取は武生ー大阪が第二期工事区間になったことに「二期工事がいつ行われるのか明示されておらず、全面的に喜ぶわけにはいかない。本県は関西経済圏との結びつきが強く、大阪からも同時着工してほしかった」と全面的に喜べないといった表情。

武生商工会議所の前田栄雄会頭は行政財政改革の時代だけに現情勢では武生止まりもやむを得ないと理解を示しながらも「建設計画の先行きに不透明さを感じさせるし、武生止まりでは新幹線を殺してしまう。地域開発に遅れをとることになる」と話す。

小浜商工会議所の木下也雄副会頭は「若狭が原発基地化していることを考えると、大阪から同時着工してもらわなければ。人のいやがる原発などを若狭に押しつけ、熱望している新幹線はあと回しでは困る」と県を挙げて強力な推進母体をつくり、若狭まわり実現を目指して欲しいと訴える。

福井新聞 昭和57年3月31日付記事より抜粋

⇒武生商工会議所会頭の「武生止まりでは新幹線を殺してしまう」に激しく共感。

これは現在建設が進む敦賀止まりでも同様のことが言えると思う。

逆に「歓迎の声」は掲載されていない。

大阪までつながってこその北陸新幹線

石川や富山ではどう報じられていたのだろう。

今度行ったら確認してみよう。

 

1982(昭和57)年6月23日

東北新幹線・大宮〜盛岡開業

 ⇒緑帯の新幹線っていうのが斬新でかっこ良くて、夢中でテレビをみていた記憶がある(笑)

 

1982(昭和57)年9月24日

政府が「国鉄緊急事態宣言」を発表

国鉄、5年以内に再建 緊急事態宣言を発表

政府は24日の閣議で、臨時行政調査会の基本答申を実行に移すための「今後における行政改革の具体化方策について」(行革大綱)を決定した。

同時に「国鉄の事業再建についての政府表明」(緊急事態宣言)を発表、国鉄再建関係閣僚会議の設置と職場規律の確立など十項目を内容とする「国鉄事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策を閣議決定した。

福井新聞 昭和57年9月25日付記事より抜粋

国鉄分割民営化なんていう話が出始めた頃ですな

 

1982(昭和57)年11月15日

上越新幹線開業

 

1982(昭和57)年11月27日

第一次中曽根内閣発足

 

1983(昭和58)年4月15日

東京ディズニーランド開園

 

1983(昭和58)年7月15日

任天堂ファミリーコンピュータ」発売

 

1983(昭和58)年11月9日

北陸自動車道・米山IC〜上越IC開通

 

1983(昭和58)年12月13日

北陸自動車道・朝日IC〜滑川IC開通

 

1984(昭和59)年2月12日

登山家・植村直己さん、マッキンリー登頂成功も不明に

 

1984(昭和59)年3月18日

江崎グリコ社長誘拐事件

⇒「かい人21面相 」によるグリコ・森永事件のはじまり

 

1984(昭和59)年4月1日

三陸鉄道開業

第三セクターという言葉を僕は初めて耳にしました

 

1985(昭和60)年3月14日

東北新幹線上野開業

 

1985(昭和60)年6月8日

大鳴門橋開通

⇒橋の上に駐車してうずしお見物をするドライバーが後をたたず問題に。

この頃は四国への新幹線構想があったもので、新幹線が通せる構造となっています。

僕も四国新幹線が出来ると信じてた。

 

1985(昭和60)年8月12日

日航ジャンボ機墜落事故

 

1985(昭和60)年9月30日

埼京線開業

 

1986(昭和61)年1月28日

スペースシャトルチャレンジャー爆発事故

 

1986(昭和61)年7月6日

衆参同時選挙で自民圧勝

⇒これにより国鉄分割民営化への流れは一気に加速。

ちなみにこの選挙で初当選されたのが西川きよしさん、

そして鳩山由紀夫さん、ですな。

 

1986(昭和61)年7月18日

福井市北陸新幹線誘致公開シンポジウム開催

米原乗り入れ決議

北陸新幹線の早期着工と、小松ー南越間の環境アセスの公表を求めた北陸新幹線早期誘致公開シンポジウムと決起大会は18日、福井商工会館で開かれ、約300人の商業、経済関係者や市民が参加した。

来春の本格着工を前に小松止まりが懸念されており、今後署名活動や国会議員への陳情を実施していくことになった。

さらに南越以西のるーとについては県が主張している若狭ルートでは経済効果、利便性などで見劣りし、ぜひ米原乗り入れルートにすべきだ、と決議した。

福井商店街連合会中央ブロック会 河合会長

「すでに富山、石川は駅周辺の工事に着工しており福井は大きく立ち遅れている。もし小松止まりとなれば都市間競争で金沢に大きくう差をつけられ、福井市の商店街ひいては本県産業は衰退してしまう。子孫のためにも今が正念場だ」

大阪産業大学・今野修平教授

「地域経済力を高めるには新幹線とジェット空港が不可欠。特に新幹線は本県が東京と三時間以内で結ぶのに最適の手段で、これがなければ国際都市東京の資本金や情報は本県に入ってこない」

福井新聞 昭和61年7月19日付記事より抜粋

 

1987(昭和62)2月18日

北陸新幹線芦原温泉ー南越間ルート細部計画発表

日本鉄道建設公団は18日、北陸新幹線芦原温泉駅ー南越駅(仮称)間約37キロの駅、ルート細部計画を発表した。

駅は福井駅が現駅併設、南越駅が北陸自動車道武生インターチェンジ南側に新設される。

ルートは芦原温泉駅から南東に進み、北陸本線の東側を走って福井市開発町付近で市街地に入る。

同市花堂町まで同本線に沿って南下した後、北陸自動車道をまたぎ文珠山と鯖江市の三里塚トンネルを通過、南越駅に至る。

昭和62年2月19日付 福井新聞より抜粋

 

1987(昭和62)年4月1日

国鉄分割民営化:JR発足

 

1987(昭和62)年4月29日

北陸鉄道・金名線廃止

 

1987(昭和62)年11月6日

竹下登内閣発足

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http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/74.html

 

1987(昭和62)年11月29日

大韓航空機爆破事件

 

1988(昭和63)年3月13日

青函トンネル開通

 

1988(昭和63)年4月10日

瀬戸大橋開通

⇒母の実家に帰省する際、

いつも楽しみにしていたのは宇高連絡船で食べる「うどん」だった。

 

当時の我が家に「マイカー」がなかったこともあるが、

僕には幼少の頃に家族で外食をしたという記憶が皆無で、

宇高連絡船で食べる「うどん」だけが

何故か家族4人で外食をした唯一の記憶として残っている。

 

うどんを食べていると建設が進む瀬戸大橋が見えた。

父が「このうどんも最後やなー」と言ったことは何となく覚えている。

 

 

1989(昭和63)年8月11日

運輸省整備新幹線の暫定整備計画案を発表

在来線活用、工費を圧縮 整備新幹線運輸省案を提示
富山、石川は新線 本県路線に触れず

運輸省は11日に開かれた政府、自民党による整備新幹線促進検討委員会に、建設費の削減と幹線鉄道の高速化を柱とした建設案を提出した。

(略)北陸は、上越新幹線との分岐点の高崎から軽井沢までは急勾配の区間が多いため、広軌の路線を建設し、軽井沢から長野の間は在来線を広軌化する。車両は在来線規格のミニ新幹線となる。

また、北陸新幹線糸魚川ー魚津間、高岡ー金沢間はトンネルや路盤が新幹線サイズの新線を建設するが、レールの幅だけは狭軌とし、在来型の高速列車(スーパー特急)の運転となる。

現在建設中の北越北線(新潟県)を利用し、上越新幹線の越後湯沢と信越線の直江津を結ぶ。金沢以西については、今回の同省案には触れられていない。

メリット全くない 本県、運動再構築へ


建設費圧縮のため、在来線高速化やミニ新幹線を織り交ぜた運輸省案が十一日、正式発表されたことに対し、県内では「期待していた新幹線とは別物」「本県に全くメリットが無く、容認しがたい」と一斉に反発を強めている。

北陸新幹線建設促進議員連盟の会長を務める福田一衆院議員も「納得出来ない。災害時に東海道新幹線がダメになった時、北陸新幹線にバイパス機能を持たせるということで、もともと政府が言い出した整備計画ルートだ。これまで南越までルート提案をしておきながら、金沢までで切ってしまったのはなぜか」と運輸省案に強い不信を示す。

 

福井新聞 昭和63年8月12日付記事より抜粋

 ⇒この福田一さん、数々の大臣職を歴任してきた福井選出の政治家である。どこまで本当かは知らぬがWIKIにはこんな記述もあった。

北陸新幹線のルート・工事区間が発表された時、その案は「福井駅」までであったが、一夜明けると唐突に南越(武生)駅(福田の選挙基盤)まで延びていた。これは元々の折衝では「南越駅」までの案となっていたのが、福田の知らぬところで福井駅までの案に削減されていたため、福田がその夜、担当者らを怒鳴りつけ、翌朝こっそりと急遽変更となったと伝えられた。

福田一 - Wikipedia

 

1988(昭和63)年7月30日

北陸自動車道・ 朝日IC - 名立谷浜IC開通:1回目の全線開通

 

1989(昭和64)年1月7日

昭和天皇崩御

 

僕が中学3年生の時だ。

この日は冬休みも終わりに近づいた土曜日で、

どのチャンネルをまわしても同じ映像が流れていたような気がする。

 

この時、僕は初めて天皇が亡くなって元号が変わることを知った。

昭和の終わり、の意味がしばし理解できなかった。

だから小渕さんが「平成」の文字を掲げたとき、

ヘイセイって何やねんと思った。

 

そんな「平成」も27年となり、まもなく28年を迎える。

元年は坊主頭のショーネン(椎名誠風)であった僕も、

今や白髪交じり、

アルコールに汚染された

チューネンである。

 

相方曰く「初老」とも言うらしい。

さらに僕のアタマのニオイを嗅いで

「加齢臭がする」なんて言いやがる。

 

どうでもいい話で長くなってしまった。

次回は平成に入ってからの「北陸新幹線」を見ていこうと思う。

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