そんな話が流れると全国津々浦々からファンが現れ、
地元の方々が「ふだんからこれくらい乗ってればねえ」
なんていうのは多々ある話しであったりする。
最終日ともなれば終日ラッシュ状態、
カメラのフラッシュの中を「ありがとう」の声援を受け
さよなら列車が出発していく光景は
もはやおなじみの光景と言っても過言ではない。
JR留萌―増毛95年の歴史に幕 最終列車、感謝と涙 (2016/12/04)北海道新聞
ところが福井には「さよなら列車」が運転される訳でもなく、
ひっそりとその幕を閉じた路線が存在する。
そんな事に気づいたのは先日、
図書館で以下のような記事を見かけたからだ。
京福越前線の存続問題で、今月内に栗田知事が存廃を判断するとしていた永平寺線について、知事と川崎不二雄永平寺町長が廃線することで合意したことが18日、明らかになった。既に京福電鉄が廃線届を提出しており、今年10月21日で同路線は廃止される。
「永平寺を参拝するとき、山沿いを走る電車でなんともいえない情緒が味わえた」「時代の流れなのだろうか。寂しい」ー。川崎不二雄町長が栗田知事の廃線判断に合意したことを受け、77年続いた永平寺線を惜しむ沿線住民の声が聞かれた。
一方で「しようがない」「悲観的な材料がそろっていた」と語る住民も少なくなく、廃線は”既定の路線”という淡々とした雰囲気も感じられた。
1992年2月に京福電鉄が永平寺線廃止の方針を公表してから10年。「危機感がなくなってしまっていた」(門前町の男性)と言うように、住民運動などは行われず存続気運は既に風化。乗客は学生以外ほとんどなく、大本山永平寺への参拝も観光バスが大部分だった。《2002年2月19日付・福井新聞より抜粋》
京福電鉄はこの前年、
平成13年6月24日に発生した正面衝突事故により、
翌日から全線での運行停止が命じられていた。
越前本線と三国芦原線が第3セクターに引き継がれることが決定したのに対し、
永平寺線は運行停止のまま半年後に廃止が決定、
さらに8ヵ月後に廃止された、ということになる。
鉄道路線の末路としてはあまりにも寂しい。
幸いにも永平寺線の跡は
永平寺参ロードなる遊歩道として整備されている。
気候的にも最適な時期であるような気がして、
徘徊に出かけることにした。
その存在は知っていたが、
驚いたのはその所要時間で、
わずか30分で到達するとのこと。
8時45分発永平寺行きの特急バスは
35分過ぎには東口の乗り場についていた。
平日の朝イチということもあるのだろうけれど、
乗客は僕を含めて(多分)5人と
いささか寂しい。
車両は随分年季が入っている。
形式には疎いけど、
たぶん三菱エアロの2代目かな。
添乗員やってた20年近く前は
「新しいのが来た!」って喜んでた記憶がある(笑)
福井駅東口を出るバスの大半は高速バスなもので、
ロータリーを出るとインターに向けて直進するのだが、
えちぜん鉄道の線路に沿うように左折するのが何とも新鮮。
勝山街道に入って福井北インターに向かい、
中部縦貫道の越坂トンネルを抜ける。
国道364号線に出る諏訪間の交差点まで福井駅からわずが20分ほどか。
「早いなあ」っていうのが正直な感想。
他のお客さんは当然永平寺に向かうが、
僕の目的は廃線跡であるもので、
方角的には引き返すことになる。
僕が初めて永平寺を訪れたのはやはり添乗員をやっていた時で、
記憶にあるのはその日は雨で、
お客さんたちがバスに帰ってくるまで、
駅舎の片隅でガイドさんと2人であーでもないこーでもないと言いつつ、
缶コーヒーでも飲みながらタバコでも吸ってたような(笑)
たぶん、だけど、その時電車が到着したけど、
ほとんど誰も乗っていなくて、
やっぱりほとんど誰も乗らないままに、
電車が折返していった、そんな記憶があるが、
別の駅と勘違いしているかもしれない。
当時から乗ってみたいなあ、
とは思っていたけれど
願いは叶わぬままに廃線となってしまった。
バス乗り場の裏手に「永平寺参ロード・スタート地点」の看板。
僕は歩きはじめる。
ゆるやかなカーブと勾配、
時折現れる標識類は
かつてここに線路があった何よりの証。
荒谷駅跡までは樹林帯だったけど、
このあたりから急に谷が開けてくる。
ほどなく「1参る」の看板。
裏をみれば「3参る」になっていた。
なるほど、ここまでで1マイル=1.6キロということか。
ということは残り3マイル=4.8キロで、
案外あるな(笑)
参ロードは小学校の校庭の脇へ。
校庭では子どもたちが体育の授業中。
15年前にも子どもたちの隣を、
電車が駆け抜けていったのだろう。
1人くらいは「あれ?電車来なくなったな」
そんなことに気づいてくれたのかな、とも思う。
参ロードは田園地帯の中を進む。
田んぼでは農家の親父さんが田植えに向けての準備中。
農作業に限らず線路の近くで作業をしていると
決まった時間に走ってくる電車って、
案外時計がわりになったりする。
それが突然、前触れもなく走らなくなるってどんな感じなんだろう。
ぶらぶら歩くこと1時間20分ほどで永平寺口駅に到着。
運動不足の解消にはちょうといい距離、
といえるかもしれないけれど
逆方向だと上り一辺倒になるから案外きついかもしれない。
旧駅舎は地域交流館に改装されていた。
中にはえち鉄の駅でおなじみの色紙がずらり。
今年あたりは各駅の色紙をずらりと並べる、
なんてこともやってみようとは思う(笑)
何となく永平寺から下ってきたけれど、
こんな写真を眺めてから参ロードを歩いても良かったな、とは思う。
永平寺口駅のホームで福井行きの電車を待つ。
永平寺線の廃止計画を発表したのは1992年2月のこと。
勝山地区がその後路線を残すためにいろいろ運動したのは、
当時の新聞記事を読めばよく分かる。
ところが永平寺線に関しては
「仕方ない」そんな雰囲気が当時からあったようだ。
あの事故がなくても消え行く運命だったのだろう。
長らく電車が走らないまま、
永平寺線は誰にも「さよなら」を言われることもなく、
幕を閉じたのだろうか、とも思う。
福井に帰った僕は図書館に向かった。
するとこんな記事を見つけた。
経営悪化と列車衝突事故による京福永平寺線の廃線を翌日に控えた20日、永平寺町内に住む京福OB、住民ら約70人が永平寺駅に集まり廃線式を行った。レールやまくら木にお神酒を掛けたり、記念撮影したりし、77年間親しんできた同線に別れを告げた。
最初に京福OBの酒井肇さん(74)が「通常は電車を走らせてさよならするが、事故で実現できずに残念。一つ一つの駅、線路、周囲の風景などに思い出があり寂しい」とあいさつ。
永平寺の木村励雲副監院(74)は「あいにくの雨は別れの涙。毎年120人前後の雲水が修行におびえながら永平寺線に乗ってきた。大変お世話になり、万感胸に迫る思い」と話した。
同線は1925年9月、永平寺駅ー永平寺門前駅間5.8キロで開業。69年に現在と同じ東古市駅までの6.2キロとなった。ピーク時の64年度には245万人の乗客があったが、2000年度には14万6000人に。2度目の事故以降は運行停止し、県、沿線自治体の存廃論議の結果、21日に廃線となる。《2002年10月21日付・福井新聞》
廃止云々で大騒ぎされることはなくとも、
地元の方は「廃線式」をちゃんとやってくれたんだ、
そんなことを知ってちょっと救われたような気になった。